【衝撃】平安時代の女性の十二単の重さがやばい!着る順番はこれ
平安時代の女性の服装といえばなんといっても十二単ですよね。
いかにも華やかで美しくてこれぞ貴族と言わんばかりの装い。
でも、いったい何をどうやって着てるのやら?
ということで、今回は平安時代の十二単のお話です。
平安時代の女性の十二単とは?
平安時代の女性の服装といって今私たちが真っ先に思い浮かべるのが「十二単(じゅうにひとえ)」ですよね。
皇室の方が宮中行事に臨まれる時に着ていたり、百人一首の絵にあったり、もっと身近なものだとお雛様が着ていたり。
この装いは十世紀後半、平安時代の中ごろには出来上がっていたといわれています。
成人した女性が朝廷に勤めに出る時の高位女官の通常服で、十二単は宮中での女性の正装でした。
なので、「公家女房の晴れの装い」とか「唐衣裳(からぎぬも)姿」なんてよばれてました。
そう、実は平安時代はこの格好のことを「十二単」とはいわなかったんです。
じゃあなんで十二単という呼び名が広まったのか?というといろんな説があるようです。
例えば、
源平盛衰記という書物の中に
「弥生の末の事なれば、藤がさねの十二単の御衣を召され」
と書かれている言葉の意味を取り違えて十二単という言葉が広まった、と言われていたり、
「袿の枚数を単(ひとえ)と数えたので、2枚重ねると二単、7枚重ねると七単というような語彙もあった」
などといわれていたり、
一番有名なのは
「着物を12枚くらい重ねてきてるように見えるから」
というやつ。
十二単の名前の由来としてどれが正しいのかははっきりしないのですが、確実にいえるのは
平安時代に十二単という言葉はなかった
ということです。
なので、十二単という名前はその後の時代の人が後付でつけた名前になります。
平安時代の十二単を着る順番
それにしても、あのゴージャスでいかにも着込みまくっている十二単はいったい何をどうやって着ていったらあの姿になるのか?
現代人にはなかなか想像しにくいところですよね。
ということで、十二単の構造を調べてみました。
平安時代の十二単のインナー
長袴
袴といえば大学の卒業式に履いたあれを思い出すんですが、十二単を着る時に履く袴はあれに比べるとかなり大きいです。
こんな感じでもっとダボダボしていて裾もものすごく長い↓
なので、十二単を着て歩く時は袴の裾を踏んで歩きます。
ちなみに、平安貴族の家は寝殿造りで床は板張り、秋冬はめちゃくちゃ冷えます。
袴から足を出さずふんずけて歩けば足も冷たくないというわけです。
十二単の袴の色は赤系でした。
・・・っていうか、袴って下半身のアウターじゃない?
と思うかもしれませんが、平安時代の女性は袴の中になにもつけません。
つまり、
袴はズボンであり下着のパンツでもある。
上に着てるものの丈が長くて、それを全部袴の中におさめてるから、「袴1枚」って感覚ではなさそうだけど。
十二単でもトイレの仕方は変わらないと思うので、トイレにいったら絶対が汚れたんじゃないかと思う・・・
平安時代のトイレ事情についてはこちらをどうぞ↓
単衣
「単衣(ひとえ)」は十二単を着る時に一番下に着るインナーのような服です。
「単(ひとえ)」ともいいます。
現代の着物と同じ形だけど大きさはずっと大きくてやっぱりダボッとしてます。
この上に十二単ではたくさんの衣を重ねるんですけど、
単衣は一番下に着るのになぜか一番大きいんですよ。
単衣の色は緑系が多くて、その他に白や茶色があり、菱形の模様がついたものが多かったようです。
そして当然、平安時代にブラジャーはない!
平安時代の十二単のメインになる袿
「袿(うちき)」は単衣の上に着るもので、十二単はこの袿を何枚も重ねることでゴージャスになります。
そう、重ねるのは単衣じゃなくて袿、なので「十二袿」って名前にしたほうがイメージしやすい気がする。
で、袿は最初に着た単衣よりは短いですが、身長よりは長い丈があります。
そんな着物を何枚も重ねて着るから十二単のあのなんとも美しい華やかな色合いが出せる。
のですが、袿を重ねるから十二単はものすごく重くなるんです。
平安時代の十二単の色目
袿を重ねていくつもの色を重ねることを「襲(かさね)」といいます。
十二単のかさね色目には意味があって、四季や植物をイメージしたものなどものすごい数の色の組み合わせがあります。
が、好きな色を自由に着られたわけではなく、季節や行事ごとにどの襲を着るかが細かく決められていたそうです。
これを間違うとマナー違反とかセンスがないとか平安貴族女子にとってはかなりのマイナスポイントだったんだとか。
袿は一枚の表と裏で色が違っていて、表が白で裏が赤だと生地が薄いので裏地の赤が透けてピンクに見えたりします。
そんな袿の色をうまく組み合わせたりグラデーションにしたりして多彩な色を表現していきます。
と、言葉でいわれても色目のかさねは現代人にはイマイチわからないですよね。
そこで参考になるのがこういう本↓
()
代表的なかさね色目や日本に昔からある色をカラーや模様を見せながら説明してくれてますよ。
ちなみに、平安時代の貴族の女性たちはこの十二単の美しい色のかさねを見せるために、御簾や牛車からわざと着物の裾や袖口をこぼしてました。
これを「出衣(いだしぎぬ)」といいます。
あと、
本来の十二単とは全然関係ないんですけど、色目について調べてる時に私が気になったのがこれ↓
このティッシュで鼻水は絶対にかめない笑
平安時代の十二単の表着
「表着(うわぎ)」は袿と同じ形ですが、一番外側に着るので袿よりも色や柄が目に付くような華やかなものが多いです。
平安時代の十二単の打衣
「打衣(うちぎぬ)」は砧で打って光沢を出した衣のことで、表着の下襲として着てました。
平安時代の十二単といえば裳!
「裳(も)」は十二単のイラストの後姿で袴の後ろの方にのびているプリーツ状のヒラヒラしたこれです↓
ウェストで結ぶエプロンのような形で、前は結ぶ紐だけで後ろ側にだけ布があってひきずって歩きます。
ちなみに、平安時代の女性の成人にあたる儀式はこの裳を初めてつける「裳着(もぎ)」という儀式で、だいたい十代前半にすませます。
平安時代の十二単のアウターの唐衣
「唐衣(からぎぬ)」は十二単の一番上に着る小さな上着のようなものです。
丈が短くて、襟も大きく折り返しているので肩から落として羽織るような感じ。
今でいうボレロとかショールのイメージです。
十二単の一番外側に着るので華やかな色や柄が多いです。
平安時代の十二単のその他のアイテム
ざっとこんな感じで重ね着すると十二単が出来上がるんですが、細々としたアイテムは他にもあります。
例えば、十二単を着たときに手に持つ紐でグルグルに巻かれた「衵扇(あこめおうぎ)」、「帖紙(たとう)」、足には「襪(しとうす)」を履いたりします。
十二単の重さがやばい!
十二単は着るだけで相当時間がかかるというけど、こうやって一つずつ見てくみると納得ですよね。
文字としてみるだけでも相当の数の衣を羽織ってるのがわかります。
となると、心配なのが重さですよね。
「十二単はものすごく重たい」というのはよく聞く話。
じゃあ実際、十二単は何キロあるんだ?と
これは袿を重ねる枚数にもよるんですが、
平均すると20kgくらい
あったんだそう!!
え?嘘でしょ?と思いたくなる重量なんですが、十二単の着付け体験ができる岩手の「えさし藤原の郷」のホームページでは、申し込みの注意書きに
って明記されてます笑
ちなみに、十二単の重さ=ほとんど袿、なんですけど、じゃあその袿は何枚重ねるんだ?って思いますよね。
十二単って言うくらいだからやっぱり12枚なのか?と思いきや、
これ、特に決まってないようです。
十二単って言うけどそれは俗称だから決して12枚ではないんですよ。
平安時代の女房の中には色のかさねにこだわって20枚以上という普通よりかなりたくさんの袿を着込んだ人もいたんだとか!
当然、重たすぎて歩けなかったらしい。
袿20枚というのはさすがに多すぎだけど、だんだんと華美な装いが増えていったそうで、
ついに平安末期から鎌倉時代にかけて「袿は五枚まで!」という「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められたんだそうです。
平安貴族の女性の十二単まとめ
平安美人と言われ続けた私としては十二単は一度は着てみたい憧れの服♪
なんだけど、いやぁ十二単の重量がほんとすごい、読んでるだけ疲れてくる。
重たすぎてすぐギブアップしてしまい、着てる時間より着付けと脱ぐ時間のほうが長いんじゃないだろうか・・・?と思ってしまう。
それにしても、
平安女子たちは運動もせず体力もないはずなのに、こんな服を毎日着てたら死ぬんじゃないか??
と思ったんだけど・・・やっぱり毎日これを着てたわけじゃなかった!
十二単はあくまで正装、平安フォーマル服!
というわけで、次は平安時代の女性の普段着についてです↓
女房装束(俗名、十二単)について一言二言、気になったことを記させて頂きます。
現代の皇族の皆様がお召になる十二単は人形仕立てと言いまして、襟、袖、裾だけ重ねてあってそれ程重くないように仕立ててあるのですね。時代劇のも然りです。
また、平安時代中期に着られるようになった女房装束は、実は現代の半分以下のの重さであったかとも思われます。
その理由は現代と平安時代のカイコの違いと、それによる絹生地の厚さの違い、品種改良が進んでいない原種に近いカイコの吐き出す糸は細く、出来上がった生地は現代より薄かったらしいのです。
詳細な事は八條忠基氏の「素晴らしい装束の世界」(誠文堂新光社刊)に掲載されておりますので、御覧下さい。
咲耶さん
コメントありがとうございます。
たしかに、布の質は現代の方が良いかもしれませんね。