平安時代の貴族の屋敷が豪華すぎる!驚きの家の広さと寝殿造とは
平安時代の貴族の暮らしといえば豪華絢爛なイメージがありますが、そう思わせる理由の一つが平安時代の貴族の邸宅!
やたら広い!やたら豪華!
え?本当にそんな家に住んでたの?と疑いたくなるようなお屋敷です。
というわけで、今回は平安時代の貴族の住居のお話です。
平安時代の貴族の屋敷をなんていう?
平安絵巻に描かれたあの大きくて開けっぴろげな独特のつくりの建物を見ると「あ~平安時代の雰囲気だな~」って気がしてきますよね。
源氏物語の中でも二条の院や六条の大邸宅などお屋敷のことがたっぷり書かれていて、平安時代の貴族の優雅な暮らしぶりを感じられます。
そんな平安貴族の住まいの造りを
「寝殿造り」といいます。
平安貴族、といっても上流貴族から下流貴族まで様々なのでお屋敷の大きさなどに差はありますが、貴族は基本はこの寝殿造の家に住んでいました。
とはいうものの、実は平安時代の寝殿造りのお屋敷って
理由はいろいろあるけれど、大きな原因の一つは火事。
寝殿造りの家は木造建築なので火事になればあっというまに燃えてしまいます。
あと、寝殿造りという建築様式は平安時代以降にも残っているんですが、時代によってその造りが変化していったそうです。
平安時代のすぐ後の鎌倉時代ですら平安時代の寝殿造りに比べると規模が縮小されているんだとか。
さらに平安時代の都の平安京は今の京都の中心部一帯です。
京都の街を全部掘り返せば平安貴族の屋敷跡の遺跡は出てくるかも知れないけど・・・まぁ無理ですよね。
というわけで、私たちはタイムマシーンができない限り「平安時代の寝殿造」の建物を見ることはできないんです。
なので、「平安時代の貴族の屋敷」として今考えられているのは資料などをもとにした復元図からの予想ということになるそう。
そう考えるとお寺とか神社とか今も現存してる平安の建築物って超貴重!!と思える。
で、平安時代の貴族の屋敷は残ってないんですけど、その当時の寝殿造りの影響を受けた建物は今でも見られるものがあります。
有名なところだとこのあたり↓
- 平等院鳳凰堂
- 京都御所紫辰殿
- 中尊寺金色堂
- 毛越寺
- 厳島神社
あと、テーマパークだけど平安好きにはお馴染みの「えさし藤原の郷」では広大な敷地を使って平安時代さながらに寝殿造や平安の街並みなどを再現してますよ。
平安時代の貴族の家が広すぎる!
で、実際には見ることのできない平安貴族の寝殿造りですが、いったいどんなものだったのかっていうと全体構造はこんな感じです↓
平安貴族、といっても上流貴族と下流貴族だと財力が全然違うので屋敷の大きさや建物の数なんかに違いはあったようです。
でも基本は「池に向かってコの字型」のこの形。
ちなみに、公卿といわれる上流貴族の家だと敷地が一町あったといわれています。
一町というのは120m四方の土地のことで、面積は14,400平方m。
なんかすごいけど、よくわからないですよねw
お馴染みの例えでいうならば、一町の広さは東京ドームのグラウンド部分よりちょっと広いくらい。
つまり平安貴族の屋敷は
敷地内に野球場を一個作れる広さってことです!
まぁこの敷地の半分以上は庭なので建物が建ってる広さはその一部ですけど。
こんな広大なお屋敷なのにこの中で暮らしていたのは20~30人くらいというから平安貴族の贅沢ぶりに驚かされます。
平安時代の貴族の寝殿造の家にあったもの
じゃあ具体的に寝殿造りの広大な邸宅の中に何があったのかというとこうなります↓
平安時代の貴族の屋敷を取り囲む築地
この広大な平安貴族の家の敷地のまわりは「築地(ついじ)」とよばれる土壁で囲まれていました。
この築地の西と東に外の大路、小路とつながる門があり、さらに東西の対屋から南に伸びる廊下の途中に中門があって、人や車がお屋敷に出入りするための通り道になっています。
平安貴族の家の中心の寝殿
寝殿造りの中心にある「寝殿」は寝殿という名前だけど寝るだけの場所ではありません。
寝殿はその家の主人の正式な居所ということになっています。
ここで昼間過ごしたり、お客さんを迎えたり、庭での儀式や舞楽などの催しを見物したり、寝る以外にもいろいろします。
寝殿造りといえば対屋
寝殿造りの家では真ん中にある寝殿を囲むように北、東、西に建物を造ります。
これを「対屋(たいのや)」といいます。
平安貴族の女性たちはこの対屋に住んでいて、家庭生活のメインはこの対屋で過ごすことが多いかなと。
例えば、源氏物語でも二条の院の西の対屋に紫の上が暮らしてます。
平安貴族の家の建物をつなぐ渡殿
「渡殿(わたどの)」は寝殿造りの家の建物どおしをつなぐ渡り廊下です。
渡殿には壁があるものとないものがあって、壁がない渡殿は「透渡殿(すきわたどの)」といいます。
壁のある渡殿には通路の片側に「曹司(ぞうし)」という部屋があって、貴族の家にお勤めにきている女房の部屋になってました。
ちなみに、紫式部日記によると紫式部の部屋は藤原道長の家の渡り廊下の戸口のところにあったらしい。
平安貴族の住居に欠かせない庭
平安時代の貴族の家になくてはならないのが広大なお庭です。
この庭が平安貴族の家の敷地の半分以上を占めているといっても過言じゃない。
寝殿造りの庭は自然との調和を重視していて自然の景色を再現するように造られていました。
その上品さや繊細さが貴族の感性にマッチしていて、平安貴族はとにかくみんなお庭を愛でます。
特に家から出ずほとんどの時間を自分の部屋で過ごす平安貴族の女子にとってはこの庭の眺めがほぼ唯一の外の世界といってもいいくらい。
そんな貴族の家の庭には白砂が敷き詰められていて、ところどころに「前栽(せんざい)」という植え込みをつくります。
東の渡殿の下を通って庭を流れて池に注ぐのが「遣水(やりみず)」です。
平安貴族の屋敷の南側には大きな池があって、「築山(つきやま)」という人工的に造った小さな山のある中島があります。
その島の間に「唐橋(からはし)」を架けました。
池の東西には「釣殿」があって魚釣りをしたり納涼のために使われました。
春などは池に船を浮かべて遊ぶこともあって、その豪華絢爛な貴族の遊びの様子が源氏物語の「胡蝶」の帖に描かれてますよ。
平安時代の貴族の屋敷まとめ
もうなんか、ほんと、平安時代の上流貴族の邸宅のスケールが壮大すぎて庶民にはイメージできない!
と思った方はこの映画とか見てみるとイメージがわきやすいですよ↓
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で、これだけ敷地が広いと当然、建物一つ一つも大きいわけで。
いったい平安貴族の家の部屋の中はどうなっていたんだ?と。
ということで、次は平安時代の貴族の部屋についてです↓
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